社会に出て働いていると当然そこに『評価』が付いてくる。逆にする側に回ることもある。
受けた評価には真摯に向き合う必要もありながら、あまり真に受けすぎないというバランス感覚も必要になる。人間に対する完璧で正当で真実の評価なんて神様みたいな存在にしかできないからだ。人間は見たいものしか見えない。良かれと思ってしたことが不評に終わることもあれば些細なことで感謝されることもある。だから必ずそこに歪みはある。評価する側に回った時の自分もきっと見たいものしか見えていないのだろう。
私がおいしいと評価したアイスが万人に好まれるわけではない。下した評価も正誤があるわけではない。
少し前の自分は評価をまともに受け止めすぎてかなりダメージを受け、概ねの評価より悪かったところにフォーカスをあててくるしみを感じていた。きっとこの状態だったのだと思う。
見返り
求めるから
いつも傷付いて終わるご褒美
欲しがるから
いつも腹が減ってる
(藤井風 “特にない”より)
ここに来てやっと(まあ100人いれば100通りの感じ方があるんだからさ)と思えるようになった。100万人に支持されるアーティストやYouTuberにだってアンチがいることを考えると必ず難癖つける輩は一定数いるのだ。
特にない
定めなどない
わたし 囚われず歩く特にない
渇きなどない
わたし 満たされてる
(藤井風 “特にない”より)
流石にまだわたしは“満たされてる”の境地には至らないけど評価してもされても真摯に受け止めこそすれ、そこに定めず、囚われずいたいとおもうことにした。