だけのこ日記

何もない日常が日常、それ”だけ”のこと日記

立春、旧正月そして新月

羽根を痛めた鳥が落ちた場所が、どんなかみさまの計らいなのか?ものすごく温かな優しい場所でした。厳しい世界を1羽で生き抜いていたと勘違いしていた鳥は、ほんとうは見えない誰かの働きがあってこそ自分はこの世で生きていられること、コミュニティという群れで過ごしてもいいことや頼る場所があってもいいこと、優しくされたら受け入れていいこと、厳しさだけをばねにしなくてもいいことなど、そのほかにもたくさんのことを、羽根を休めながらおしえて貰いました。過去や未来に囚われず、今ここに気づけるように呼吸のやり方も教わりました。そうこうするうちに少しずつ傷も癒え、春が来て新しい羽根が生えてきたようです。

その温かな場所に今までのように毎日はいられないかもしれないけど、そのあたらしい羽根で教わった事を取り入れながらまたいつもの空へ飛び立とうとしています。疲れたら休む場所を見つけたので安心して飛び立つことができるようです。

 

【解説】

こんばんは。のりです。

自分の都合で朝の5分間瞑想を今までのように毎日リアタイする機会がどうしても減ってしまうため、その心境を物語ふうに書いてみました。それがないと不安ではなく、ここがあるから安心に変化して行く感じ。

朝の5分間瞑想に出会ってからは聴くために朝のルーティーンを変えてました。今度は瞑想が支えてくれるから動き出すことができます。

いまでは瞑想をしない日の方が少ないということに自分自身が驚いています。瞑想を初めてまだたった3ヶ月くらい。これからの方がずっとずっと続きます。すがるように聴いてた最初の頃とは違う自分がいます。ずいぶん遠くにきたような気もするし、変わらない自分もいるような気がする。(自分を好きになれない感はなかなか取れない)

また明日も背筋をスゥっと伸ばして土台はしっかりと。最後の呼吸を見送って過ごす日々は続きます。

1月まとめと2月の始まり

今年の目標に対して何かアクション取れたかな?と考えるとうーん…という感じ。なかなか自分と仲良くなれなくて優しさまで辿り着いていないような。なんなら自分嫌いかな?とか言っちゃうし。強いていてば瞑想に出会ったきっかけの『いやな物事』は無くなったけどまだ瞑想を続けていることと、貰った機会はいろいろ試してみた、という感じ。いや、もうそれだけ出来てれば十分か?

今までこんなに自分と向き合うことはしてなかったのであまり自分が見えてないのかもしれない。目標はこれ👇

じゃあ、自分ってどんなだろう?と考えた時に私のことを私より知ってるのは私じゃなくて周りの人かもしれなくて、朝瞑想仲間のそらさんの感じてくれた私の『らしさ』。

ここだけ切り取ると(ふーん)って感じですが良かったらポスト見てみてください。生きるか死ぬかみたいな人に私の感想を述べさせてる私。そらさんなら笑ってくれる!と思ったからなのですが。それを「らしさ」と捉えてくれて嬉しかった。色んなことがあるし色んな思いがあるし、それはその人にしか分からないことだから私は否定も肯定もしないし、行動を止めることもできないけど、私もそらさんならこのふざけたリプを受け止めてくれると思う『らしさ』を感じるからの応答だった。よかった。

 

物理的なやろうとしてることは合格のための試験勉強。少しずつエンジン温まってきた感じでご飯作りながら講義音声聞いたり、夜1時間くらい勉強したり。ウォーミングアップとしてはOK。受験勉強1日量としてはぜんぜん足りてないので少しずつ増やしていく。5月にスクーリングとちょっとしたテストがあるので3月までにはだいたい1日2時間程度確保できるように調整。それまでは幅を持たせる。予定や計画を立てる時に〈1番いい時の自分基準〉で立てがちだけど、最低限このくらいはやっておきたいという〈いちばんできない時の自分基準〉にしておくのが何かあった時に軌道修正しやすい。コレができなかったらちょっとヤバいの辺りを設定してそこは頑張る。試験だから頑張りも必要。

そんなことを考えながら1月が終わり2月が始まりました。(昨日からちょこちょこ書いてた)

SNSの距離感とその歴史(わたしの場合)

結論としてはネット上で起こることは社会の中で生きている自分とイコールにしないということをルールにしている。別人格を作っているとかそういうのではなくて、Wi-Fiをオフにしたら見えなくなる関係性と現実をごっちゃにしない、ということ。SNSは、情報の海を楽しんだり、愚痴を言ったり、助けてもらったり、自分が書いたものを好きと言われたりたのしむもの。嫌ならブロックなりミュートなりする。選択する基準は自分。耳の痛いことを言われるのは現実だけで充分くらいのスタンスでいいのではなかろうか?Xで有名人がお互いの主張を言い合ったりしてるのをたまに見るけどやれやれ(村上春樹ふう)と思いながらそっ閉じしてる。ここに書いているのはあくまでわたしの場合であって、それ以外のものを否定するものではない。多様性こそインターネットのいいところだから。

ここから下は2008年からTwitterをはじめた私の自分語りの思い出話みたいなもんなので、お時間のある方、暇を持て余してる人だけどうぞ笑

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わたし自身、インターネット老人会に属する方だと思う。

1990年代の終わりくらい?ニフティサーブなどのパソコン通信からインターネット(WWW=ワールドワイドウェブ)に移行し、通信速度の向上と、一般家庭からも接続できる環境が少しずつ整い、参入障壁が下がってきた。調べてみたら1999年にADSLがサービス開始していた。その後、急速に増えたいわゆるネット上の『コミュニティ』

わたしの記憶する古い順から書くと2ちゃんねるを筆頭とする匿名掲示板、ポータルサイトの用意したサーバ上での匿名チャット、招待制のテーマ別グループ掲示板+チャットのmixi、実名のFacebook、ひとことブログの立ち位置から始まったTwitter(現在のX)、SNSとは呼ばれるけどインフラ化したLINE、写真がメインのInstagramPinterestはちょっと違うか。

レシピサイトとして認識されているクックパッドも会員登録制の料理特化型SNSとして見ることも出来る。クックパッドは参入が早かった。いち早くSalesforceを導入してた記憶がある。

閑話休題)現在は新サービスのBlueSky、スレッズもある。自分はUIがイマイチでXから抜けられずにいる。

匿名性への信頼と危険

匿名の関係だけれど、オフ会も活発だった。

活動に透明度の高いものはわりと参加していた。この辺の嗅ぎ分けは経験値が関係してくるが基礎的見分け方はセミナーなどの場合

・実費+主催者経費 それ以上の価格設定(万単位)、または無料と謳って囲い込み、誘い方がしつこい、会場名を記載していない、閉会の時間設定がない、やたら好転とか人生変わるとかあかるい側面しか言わないとかで判断している。教祖じゃないけど1人の人を崇め奉る系も回避。

exciteチャットで知り合ったグループで夜の渋谷で飲んでオールとか普通にあった。25年くらい前です。人運がめちゃくちゃ良くて何も悪いことが起きてないことがすごい。わたしが今20代の娘の親ならハラハラするようなことをしてましたね。(反省)でも本当にいい人達で社会人から学生まで色んな世代のさまざまな経験をしてる人たちに出会えて本当に楽しかったなー。チャット内での会話で人となりを見極め(と、いうのもおこがましいけどそうせざるを得ない。自己責任なので。)当時HTMLでホームページを作る時代だったので技術系に詳しいひとが集まるところにいてお互いのホームページを見せ合って話をしてました。その流れの飲み会。ノンデザイナーズデザインブックの時代です。

この頃はまだガラケーの時代で主戦場はパソコン。割と大きなモニタで、文字を追っていく世界。仕事でパソコンはあっても家庭に1台とかはもう少し先の話。その当時に何十万と使ってパソコンを用意してインターネット環境を整えることの出来るある意味『やる気』のある人達が集まっていたのかもしれない。仮名で出会い仮名で別れ、連絡先はチャットかメールのみ。来なくなったらなにしてるかわからない。入れ替わり立ち替わりがあたりまえだったのでそこに疑問を持つことはなかったし、自分もそうだった。

 

スマホ時代のSNS

iPhoneが世の中に与えた影響は大きくてスマホが台頭してきてからのSNSはまた違う。

より一層スピードが速くなり、回線の太さが上がり大きなデータを手のひらで扱えるようになった。ある程度パソコンやインターネットに明るくないと辿り着けなかった環境に、誰でも飛び込むことが可能となり年齢層もぐっと下がった。インターネットという通信環境がコモディティになっている現在。Wi-Fiはあって当たり前。有線やダイヤルアップは遺物となった。

またPCモニタと違い、小さな画面で文字を読むため、視覚の距離が近いと心理的にも影響が大きくなる。遠くから呼ばれる感じではなく耳元で囁かれるような距離感になる。利用人口が増えればそれだけ複雑になる。良い人も悪い人も増える。儲けようとする輩が出てくる。リアル社会と同じことが起こったりもする。でも、ひとつ違うことは『関わり』を自分で選べることだ。閉じてしまえばみえない世界に自分がこだわる必要はない。

 

【追記】

子どもたちの世代はリアルと虚構がごちゃ混ぜで友だちをフォローしてるアカウント、それとは別の裏アカなんてあってあたりまえ。この辺りの世代のインターネットの感覚はわたしとはまるで違うので語ることはできない。かなり生活に根ざしている。固定電話が家にない子も多い。私の関わっているスタイルはインターネット老人会であって現代の使い方ではないことを意識することも必要かと思う今日この頃である。

マイ・モーニングルーティーン

ルーティーンは季節で入れ替えたり、自分の就労状況、子どもの学校生活に合わせて変化します。

去年9月頃までのルーティー

6:00コーヒーを入れる、お弁当つくる、出来上がったコーヒーを飲みながら作業。長男起こす。

6:30 お弁当出来上がり→冷ましタイムにウォーキング、ストレッチ、ヨガなど軽い運動いずれか30分または組み合わせて

7:00帰宅、シャワー→朝食

だいたいみんな起きていて、私が入れたコーヒーをすでに飲んでいる。その時の気分でごはん、パン、なんでも。コーヒー以外にも私だけの飲み物ルーティーンが決まっててプロテインバコパパウダー入りとトマトジュース。

7:30自分のお弁当を別で詰める(自家製サラダチキン、蒸しキャベツ、オートミール。単純で簡単なもの。考えるのめんどうでほぼ毎日。)

子どもたちのお弁当包んだり水筒用意したり自分の着替え化粧持ち物準備に後片付けとかしてるとあっという間に1時間。

8:40 出勤

 

現在のルーティー

5:45アラームがブルブル、しばらく布団のなかでボーっとしてる

6:00 …までには布団を出てコーヒーを入れる。お弁当箱にご飯から詰めて冷ます。お弁当おかず作成。朝の5分間瞑想始まるまでにだいたいフィニッシュ

6:30朝の5分間瞑想space参加

6:40 瞑想タイム

6:50 朝瞑想の前説とクロージングはBGMの時もあれば手を止めてがっつり聴く時とある

7:00次男起こして朝食、風呂とトイレが家族でかぶりがちなので調整しつつ支度。飲み物ルーティーンはそのまんま継続。トマトジュースをあっためるくらい。(ホットマトジュースおいしいよ!)ご飯の選択肢にお餅が加わるのが1月っぽい。自分のお弁当(前と同じ)を支度する。子どもたちのお弁当包みなど…以下前と同じ。

8:20お風呂トイレ渋滞を潜り抜け着替えとか化粧とか。

8:40出勤

起きる時間が30分〜1時間ズレの時は子どものお弁当がない時。わたしの休みと子どもの休みが被らないので起床から8時過ぎのルーティーンはほぼまいにち変わらない。

寒すぎて外へウォーキングへ行かなくなったのと瞑想の優先順位が高くなるべく参加するようにしている。自分が心地良いから。リアタイしてない時はアーカイブで瞑想のみ。

 

節分を機に、起床を30分〜1時間繰り上げ予定(少しずつ)

夜明けが早くなるので運動を再開したいのと、勉強時間の確保は朝のほうが効率が良いので調整をかけたい。残念ながら老化もしているので欲張りすぎず勉強の日と運動の日と交互にしてもいいかもしれない。そうすると少し時間に余裕もできる。今までできていたことが出来なくなってくることも視野に入れて計画を立てる。たしかに今日の自分がいちばん若い日なのかもしれないが確実に昨日より歳を重ねている。先天の気を大切に、後天の気をしっかり養う。老け込む必要はないけど年齢なりの手入れを行う必要がある。精神を保つためにもバランスよく。

 

4:45アラーム

5:00軽くストレッチ

5:15勉強

6:00お弁当作り

(時間未定)外があかるくなったらウォーキングへ。これを音楽とか聞かないで歩行瞑想にしてみようかと考え中

7:00くらい?家に戻って風呂、朝食以下ほぼ今までと同じ。

8:20 前後、会社へ行く服へ着替えちゃう前に朝の5分間瞑想、瞑想タイムのみ実践。

8:25以降 前と同じ

 

こんな感じかなー?

朝ルーティーンの次は夜ルーティーン。こっちの方が毎度定まらなくてなかなか微妙。みなさんのルーティーンも知りたい。VLog見るの好きなので自分も動画撮ってみたいけど難しそう〜。今日はただの日記。おしまい。

休むことについて語るときに私の語ること

アップするのをちょっと迷ったけどさいごに私らしさを加えて公開することにしました。

 

192回目のことりさんの朝の5分間瞑想の話題が『休む』でした。30代、40代前半はなかなか休めなかった私なのでコレ、ものすごく語れるので瞑想中もソワソワしてしまったくらいです。

養生の師匠に『まず休みなさい』って言われても『ちびっこ2人いて休むなんて無理です!』ってくちごたえしてたくらいで(チャットだったから書きごたえ?)←ヲイ 

だから、いま子育て真っ只中の保護者の方々が『休むことは大事ですよ』って言われたとて!!っていう気持ちが本当によくわかる。そこで休むの捉え方を思い出しながら書いてみます。

当時『休めない』とかんがえていた私の考える『休む』はたっぷりと時間をとって休息に充てることが休みだと考えてました。もちろんそういう時間も必要だけれど、子育て真っ只中の休むは少し違う視点で考えてみても良いと師匠に教わりました。『自分の好きなことに熱中する』ことも『休む』のひとつだと。

たとえば子どもたちが寝静まったあとに漫画を思いきり読んでもいいし、パンやケーキを焼いてもいいし、ゲームをやりこんでもいい。自分を二の次にしてるから本当に好きなものに集中して心を解放してあげる。それで多少寝不足になったとしても心のはすっきりするから、と。それくらい世の中の保護者の方は自分を二の次にしているよ、と教えてもらいました。(もちろん毎日はヤメテネ)

 

とはいえ。

…そんな時に限って普段起きない子どもたちが起き出してくるは“あるある”だし、じゃあ朝早く起きてやろうと思うと追従して起きてくるお子さまたち…この「コントロールできない」ってことがいちばんのストレスですよね。そこで次のターンは『託児を利用する』です。家庭のかたちがご夫婦である場合、お互いで子どもの面倒を見れば良いのでは?と思うかもしれませんが、ここはお金の力を借りて託児をお勧めします。祖父母に預けるも同じ理由でやめておきましょう。なぜならかえってストレス溜まるからです。ちょっとなにかあったらLINEが来てしまうような状態は休みとは言えないからです。有料かつ信用のおける第三者託児であれば怪我や発熱以外は余程のことがない限り連絡は行かないです。おむつがないとか食べないとか泣き止まないとかでいちいち連絡が来たのでは休むことにはならないからです。私はなかなかこれが出来ずに長男の育児はかなり病んでました。完母、オーガニック、無添加…さすがにワクチンは打ってましたがポリオだけ不活性待ちするくらいには殺気立ってました。子どもVS私になってしまって逃げ場がない。当時の夫は控えめにいってあまり戦力にはなりませんでしたのでかなり煮詰まっていたのです。(夫の名誉のために付け加えておくとなぜか今とても頑張ってくれています。私がフルタイムで働き出してから)

 

自己紹介で書いたようなさまざまな活動ができるようになったのは長男が2歳すぎて夫が1人でもまあまあ子供を見てられるようになってからです。

 

あ!突然思い出した。

睡眠や疲れなどの著書が多い精神科医の西多先生から産後の細切れ睡眠について質問したことがあります!朝活のイベント講師でお越しになってた先生、帰り道が同じでその日の感想などお話ししながら駅まで歩き、その時に聞くという図々しい若き日の私…(^^;;

まとまって眠ることができなくて疲れが溜まるのですがどうしたらいいですか?の返答は…

 

し か た な い。

 

デスヨネー。

そこはもう仕方ないので寝られる時に寝てくださいとしか言いようがないかなーと、おっしゃっていました。とっておきの解決法って、やっぱりないのです。なにごとも。ささやかなことを積み重ねられることが自分自身への優しさなのかな?と、今年50になる歳でやっと実感とともに書くことができます。コツコツ努力するなんで耳タコじゃないですか。誰でも知ってる。でも実行する人は少なくて、わかる頃には人生のピーク終わってるみたいな🤣

今日ここに書いたことも実際いまバリバリに子育てされてる方には(きれいごと)に映るだろうなぁというのも予想してるというか、自分もそうだったから。アドバイスをしてるつもりは毛頭なくて、かつての同志に少しでもその荷物を軽くして進んでほしい。でもね。こんなBBAに言われてもフンッ🐽って思うよね。今その場にいなくて昔のことだから懐古厨乙だよ、忘れてるからそんなこと言えるんでしょ、っていうのもわかる。私がそうだったから…(以下ずっとこんな感じで逡巡…)

しあわせリレー

忘れないうちにメモ。

筆不精なので年賀状はもらったものに返事をするスタイルなのですが今年はすべてのはがきに「しあわせな1年になりますように」と書き入れた。なぜなら言われないと気づかないことに自分が気付いたから。もしかしたらその人はわたしなんかが言わなくてもすでにしあわせなのかもしれないけどそうじゃないかもしれない。どちらの場合でもその時の一瞬しあわせを思い出すきっかけになったらいいな、と考えた。

慎重、気遣いという名の足枷と忖度

思うままに自分の心のうちを話す場所というのはいままであっただろうか?人はいつも、良くも悪くも役割りの仮面を被り適切な言葉を探す。普段は意識せずにいたけれど、かなり気を使って話題を選んだり、拾った言葉をどうやって返すのかものすごく考えていたことに気づいた。それは悪いことではないし、むしろ社会的には良しとされる行動で、大人の所作である。思うがままの言葉を発しているのはせいぜい2、3歳前後までで幼稚園に入る頃には子どもなりに自らの社会の立ち位置を認知しているという言説を見たこともある。(出典失念、すいません^^;)

そんなことをまったく気にせずに話す機会を得て思うままに話す。そこで初めていつもの自分はかなり考えて言葉を発していることに気づく。そりゃあ、脳も疲れて瞑想が必要になるよなぁ、と。そして心に負荷をかけない会話は、それだけで癒しになる体験をした。発した言葉や内容が無意味ではないけど、ただ頭のなかのよしなしごとを、ただ受け止めてくれる人がいるから出すだけですっきりした。これはきっと、聴く側にスキルが必要なのだろうと思う。すっかりいろいろと話した私は頭がちょっと興奮もしたけど、昼寝して起きたらすっきりと目が覚めて頭が軽かった。

また明日から仕事で毎日いろいろなことが起こって、やっぱり言葉は慎重に繰り出さざるを得ないし、さまざまな制約とともに現実を過ごすわけだけれど何かあったら今、ここ。

呼吸を思い出し、大きく息を吸い込んでは吐き、瞑想で自分をメンテナンスしながら頂いた優しさを同じように自分へ与え、できたら自分の周りにもその気持ちをまわしていきたいなと素直に思った。

そうすることで少なくとも自分の周りの人は忖度せず自分の思うことを交換し合って風通しのいい間柄になれたらいろんなものがうまく噛み合って行くんじゃないかな?と考えた。これは理想で実現には程遠いけれどまずは自分が自分に対して今思っていることをしっかり注いでいこうと思う。

 

※オベンキョウーの知識もな…脳みそガンバレ