だけのこ日記

何もない日常が日常、それ”だけ”のこと日記

慎重、気遣いという名の足枷と忖度

思うままに自分の心のうちを話す場所というのはいままであっただろうか?人はいつも、良くも悪くも役割りの仮面を被り適切な言葉を探す。普段は意識せずにいたけれど、かなり気を使って話題を選んだり、拾った言葉をどうやって返すのかものすごく考えていたことに気づいた。それは悪いことではないし、むしろ社会的には良しとされる行動で、大人の所作である。思うがままの言葉を発しているのはせいぜい2、3歳前後までで幼稚園に入る頃には子どもなりに自らの社会の立ち位置を認知しているという言説を見たこともある。(出典失念、すいません^^;)

そんなことをまったく気にせずに話す機会を得て思うままに話す。そこで初めていつもの自分はかなり考えて言葉を発していることに気づく。そりゃあ、脳も疲れて瞑想が必要になるよなぁ、と。そして心に負荷をかけない会話は、それだけで癒しになる体験をした。発した言葉や内容が無意味ではないけど、ただ頭のなかのよしなしごとを、ただ受け止めてくれる人がいるから出すだけですっきりした。これはきっと、聴く側にスキルが必要なのだろうと思う。すっかりいろいろと話した私は頭がちょっと興奮もしたけど、昼寝して起きたらすっきりと目が覚めて頭が軽かった。

また明日から仕事で毎日いろいろなことが起こって、やっぱり言葉は慎重に繰り出さざるを得ないし、さまざまな制約とともに現実を過ごすわけだけれど何かあったら今、ここ。

呼吸を思い出し、大きく息を吸い込んでは吐き、瞑想で自分をメンテナンスしながら頂いた優しさを同じように自分へ与え、できたら自分の周りにもその気持ちをまわしていきたいなと素直に思った。

そうすることで少なくとも自分の周りの人は忖度せず自分の思うことを交換し合って風通しのいい間柄になれたらいろんなものがうまく噛み合って行くんじゃないかな?と考えた。これは理想で実現には程遠いけれどまずは自分が自分に対して今思っていることをしっかり注いでいこうと思う。

 

※オベンキョウーの知識もな…脳みそガンバレ